昭和52年11月12日 朝の御理解



 御理解 第10節
 「神が社に入っては、この世が闇になる。」

 私共が対象として拝ませて頂いておる神様の御性格でしょうかね。金光大神の御取次を頂いて、拝ませて頂いておる神様とは、金光大神の信心によって現れなさった神様。それは結局、世界というよりも宇宙と言う事が本当でしょうね。取分け私共の住まわせて頂いておるこの地球上に住む人間、または生きとし生けるもの全てがこの神様の御恩恵に浴しなければならない。ですから神様が小じんまりと御社の中に納まりなさると言う様な神ではないと言う事を、宣言しておられるわけですね神様が。
 次に十一節に「神は天地の守じゃから離れる事は出来んぞ」と。そういう神様。そこでお道の信心をさせて頂く者は、その神様の事実を、私共が信仰体験によって分らせて貰う。成程この神様のおかげを頂かなければ、私共が立ち行かんと言う事が分る。同時にその神様が大天地に対する小天地人間、大神霊に対する小神霊人間氏子と言う様な事が段々分かってくる。分かってくるとその言うならば、神様の心を体して、天地の親神様の心を心としての生き方と言う事が、まあ言うならば教えの全てと言うてもいい訳です。
 教祖様の御教え下さってある、御理解下さってあるその御教えは、言うならばその天地との一体感というか、それを信ずると言う事が絶対信と言う事であります。これはサンフランシスコの福田先生が言い出された言葉ですね。「絶対信」という。私共と天地の親神様との間の、離れようにしても離れることのできない不離の関係、離れられない関係。その神様のおかげを受けなければ、私共生きとし生けるもの、とりわけ人間私共のことを「氏子」と呼びかけて下さる。
 その中でも信心をさせて貰う者の上の事を「信者氏子」と言う風に呼びかけて下さる。それで「信者氏子」としてのまあ資格というか、値打ちというか、それはその神様のお心をお心として、神様の心を体して生きる生き方を身につけて行くと言う事。(笑)今日は大変難しい事になりましたですね。いわゆるお道で言う所の神感なんです。天地の。金光教では私共は頂いておる拝んでおるのはこういう神様だと言う事なんです。
 それでそこに絶対信が生まれて来る様な信心をさせて頂く事の為にも、私共が神の心を心とするという生き方。それを教祖様は「天地日月の心になること肝要なり」と教えておられるのです「天地日月の心」言うならば神様の心をひっくるめて現した私は表現だと思います。言うならばその中には「天は父なり地は母なり」と言った様な内容があると同時に、天が限りなく私共に与えて止まない、与えて与えて与えきっておられる。そういう状態を自分達の心に頂こうと言う事が、ここでは麗しの心と言う風に」言う。
 限りなく美しくなりましょうと言う事は、限りなく天の心を見習わしてもらおう。天の心にならせて頂こうと言うのです。またそれをその反面を「地の心」と、地の心を心とする生き方を生活の中に頂いて行く。様々なことがある。けれどもそれ一切が神様の働きであり、神愛と分らせて頂くところにです。それをもう黙って合掌して受ける以外にないという、ところに思いが立ち至ってまいります。「もう限りなく美しゅうなろうと言う事の精進。限りなく黙って受けて受けて、受け抜こうという「地の心」。
 しかもそれを一分一厘間違いのない天地の運行に照らして、私共の心もそういう間違いのない生き方を身につけて行こうというのが「実意丁寧神信心」なんだ。いわゆる日月の心である。狂いがない。ところがなかなか私共はね、大きなことは、まあ例えば出来る人でも小さい事に迂闊にしておると言う様な事がある。それを最近は、いよいよ本気で心行さしてもらう。お道の信心は、「表行よりは心行をせよ」と仰るが、今の合楽では、その「表行より心行をせよ」と仰るのですから。
 この品物よりもこの品物の方が良いと、こう言う事になれば、なら今まで使っておった品物よりそれを捨てて、次の良い品物に移って行かなければならないように、「表行より心行をせよ」と。「表行」と言う事は今まで宗教者の、まあ信心をするという人達ならばこの「表行」と言う事を大変尊い大切なものというふうにして来た。信心に修行はつきものというのを心行と言わずに、いわゆる信心に修行はつきもの。
 本気で仏様、神様に向かえば、瀧の水を頂いたり、いわゆる水行をしたり、断食をしたり断ち物をしたり、茶断ち塩断ちと言った様なことをね。それがもっと極端になると、それこそ様々な修行がやっぱりあります。一生を逆立ちしておらにゃならんという修行すらがあるくらいなんです。そういう例えば修行というものが、いかにつまらないものかということを教祖様は仰っておるわけです。教祖様も初めの間はその表行もなさった。もうそれこそ雪中に。
 いわゆる雪の中に雪だるまのようになって、その一夜中を過ごされると言った様な激しい修行もなさった。けれども段々信心がお進みになるにしたがって、言うならば心行一途になられた。そこで私共も様々な修行をしてきましたけれども、成程天地を揺り動かすような働きがちょっとは出来るけれども、それはもうあっという間に消えてなくなるもんだと言う事が分って来た。夏の日の丁度入道雲のように、それこそもうもりもりとこう空の彼方に入道雲が出ておる、あんなふうなものである。
 いかにももりもりと力が出来たかのようにあるけれども、あっという間にそれが消えてなくなるようなもんだという、私はお知らせを頂いて以来その表行を全廃。そして心行一筋。なぜ心行しなければならないか。もちろん心行とは暑い寒いを言うてはならん。ということは、まあ、天地自然に対する不平不足を言うてはならんと言う事。と言う様な言うなら心行。心の中に絶えず神様を頂き続ける行を心行という。
 神様を心の中に頂き続けておるから、風呂に行っても、便所に行っても、一手一動が徒や疎か、お粗末に出来ないと言う事になって来た。なそうと思えば子供でも為せるような。言うならば私ある方に、ある熊本から参って見えた。夫婦で参って見えた先生に、「帰りに何か一言」と言われましたから、その奥さんに申しました。折角合楽に来られたから、これだけはお土産に持って帰って下さい。「例えばあなたの周辺に、いわゆる日常生活の中に、『ああ面倒くさいな』と言う事が沢山あります。
 その面倒くさいなと思うことを面倒くさいと思わずに、いや面倒くさいと思うたなら思う程にそのことを大事にして行きなさいよ、必ずおかげ頂きますよ」と。先月その方から葉書が来た。もうこのことを本気で日々の修行に取り組ませて頂いております。ところが、御祈念が非常に有難くなったと、簡単な手紙でしたけれどもそう書いてありました。御祈念が有難くないというのはね、ただ自分が頼む事とか願う事のための御祈念ではなくて。いかに例えば今まで「面倒くさい」と思うておったこと。
 思えば思う程、その「面倒くさい」と思うことに取り組んですると言う事は、やろうと思えば子供でも出来ると言う事がそれなの。今までポンと放うからかしよった。例えば、タオル一本、なら使ってそこに掛けるでもです。ただちょっとひっかけるだけだったのが、ちょっとこうしわを伸ばしてきちっとね。乾いた時にはそれこそ新しいタオルのような感じで使えるように。
 しかもそれが自分達が気持ちの良いのじゃない、風呂場へ行った人達がああもうきちっとあるとこう見ただけで、思うただけで次の人にまでそういう良い感じを与えると言う事、それが心行なんだ。自分が綺麗好きでするのじゃない。「面倒くさい」と思う事がです。言うならなそうと思えば子供でも成せる様な事を疎かにしておった。そういう疎かにしておる所から、折角の神様が与えて与えて止みなさらない所の、おかげを漏らしてしもうておったと言う事になるのですから、実を言うたら大変な事なんだ。
 と言う風に合楽では最近言っておるわけです。「天地日月の心」と言う事が、「神が社に入ったらこの世は闇になる」と言われる程しの神様のお心をです。それこそ心憎いまでに、合楽理念はその辺のところを自分のものにすることに、あらゆる角度から説くわけです。そこでどう言う事になるかというとです。自分の心の中に言うならば、私がいなかったら合楽教会は闇になる。そういう真が生まれてくるのです。
 皆さんも、一人一人の家庭の上においてもです。私が信心をやめたら私の家は闇になる。そういう言うならば確信が生まれてくる。なそうと思えば子供でもなせる。合楽から持って帰った御土産が、今まで面倒そげん言いなさりゃ本当に、もう本当にご無礼お粗末だったと言う事が分かる。「面倒くさい」と思うておった事を、成す事が私の修行だと言う風に頂き出したら、それはなそうと思えば子供でも成せる事であったとに気付いて、それを行の上に一生懸命現わして行ったら、この頃御祈念が有難うなった。
 御祈念が有難うなったと言う事は、神様の喜びが私共の心の中に通うて来ておると言う事なんだ。どんなに御祈念をしても、白々しい御祈念しか出来ん。そういう時には拝むことよりか先ず自分の周辺の、言うならば「面倒くさい」でほうからかして折る様な事を、一つ一つまめにそれを行の上に現して行くとう言う様な行き方、言うなら神様の御教えに忠実になることが先決であって、そして御祈念であって、そこに言わば神様との交流が感じられる。心が嬉しゅうなって有難うなって来る。
 その嬉しゅうなる有難うなった心で家業の行に精を出させて頂くのですから、家業が面白うなってくる。そこには商売なら繁盛でしょうし。まあ全てのことが順調になって来る。言うならば天地の運行にこちらの言うならば、歯車がこう合ったようなものなんです。天地と一体の働きというものが一つの小さい車が回っておる。その次から次と歯車がこうやって合って行くように。そこから生まれてくるのが、天地のまあ言うならば旋律というものがです。ここで言われるリズム音が聞こえて来る様になる。
 そこには言うならば一糸乱れぬ働きというものが自分の上に感じられて来る様になる。一心に願うと言う事がこの頃言われる。合楽の信心はもう願いの信心に入った。ただお願いのある時に、「頼んどきます、済みませんどうも、お願いのある時ばかり参って来て」という願いではなくて、願わずにはおられないという願いに立っての信心でなからなければならない。二、三日前、そのことを高橋さんが、もう本当に、それこそ微に入り細に渡って御取次を願われる。
 だから一言でまだ合点がいかなかったら一遍帰られてから、同じ一言しかも簡単なこと。それでも二遍でも三遍でも、電話を掛けてお伺いをされる。「もうせからしか、そげなことまであなた、せんでんよかじゃないか」と言いたいような時もある。もうくどらしいまでに御取次を願われる。だからこれが一心の願いから、そう願わずにおられん、縋らずにおられんと言う事になったら素晴らしいだろうけれども、そういう願いではないと思うという話をしたんです。
 それを高橋さん、丁度その日は少し遅くなしてから、一番後ろから聞きよんなさった。そばにおりなさったら、その時言いなさったかも知れなかったけれども、遠く離れておったから。「まあ実は先生、私が日々こんな細かいことまで御取次を願い、お願いすると言う事はそんな事じゃありません」と言うて後でここへ出て来られたんです。実はそれなら私が信心するようになって二十数年になられますでしょうか。神様のおかげで今日までお育て頂いて、いちいち一つ一つ、言うならば売れんようになること。
 親先生が言われたから、それを実行したら却って売れない様になったと。例えば商売で言うならね。それでもやっぱり御取次を頂き続けた。中々そんなに続くもんじゃないです。例えば物を売りに参ります。だから東に行ったらよいか、西に行ったらよいか。先生が「東の方に行け」と言われたけん、東の方へ行ったら「大変売れた」と言うて喜びよったら、その次には「東に行け」と言わっしゃったけん、いっちょん売れんじゃった。と言う様な例も沢山ある。
 そう言う所をです。売れようが売れまいが御神意のままに動いておる自分というものがです。だから、ぎりぎりとことんまで御神意のまにまに動かなければ神様のご計画、なら「三福寿司」というお店に神様がいろんな計画を立てておられる。「そのお計画の一つでも狂うたらいけんと思うて私は御取次を頂きよります」と言うんですよ。私はもう本当にあの私は、高橋さんあんたがそこまでの思いなら、私が「面倒くせえ」と思うておったようなことは私が間違うとった。
 「私がこの気になりゃ、あんたがその気になりゃおかげも間近ばい」と言うて二人で話したことでした。そういう気持ちでです。神様に親先生の御取次を頂いて、親先生がおっしゃる通りにすりゃもう必ず儲かる。よい方にしか転がって行かん。ところが親先生が言いなさる通りにしたら安かった。ある方が山を買うた。一番初めの時には大変儲かった。二度目三度目段々儲かった。
 ところが四遍目五遍目になったら却って損した。だからこりゃいちいち御取次ばかり頂いて行っちゃかえって損するけんで、もう今度は自分の都合で。これが一番多いです。ですから損しようが儲かろうがもう徹底して、御取次頂いて御神意のまにまに、いやどこで一つそれなら手を抜いても神様のご計画が狂うようなことがあってはならんから、御取次を頂いておるとこう。そこんところから生まれて来るのが、今日言う「絶対信」なんです。もう御神意のまにまに動いて行ってごらんて。
 なるほど損する事もありゃ得する事もあるけれども、ひっくるめて十年立ち二十年立ってみて、それがおかげであったと言う事が分かる。ですから売れようが売れまいが、損しようが得しようがです。そこを貫いた者でなからなければ、「絶対信」は生まれて来ないと言う事なんです。「いいやおかげじゃが」とは言えんと言う事なんです。私はね御理解十節は言うならお道でいう神感だ。私共の拝ましてもらう神様はそういう性質の神様だ。だから私共もです。
 その性質と同じものに私共がならなければならない。儲かった時には「有難い神様」、損した時には「有難くない神様」というのではなくて、言うならば降ることもありゃ照ることもあるんだと。けれどもそれがそのまま天地自然の働きであるとして受けることが出来る。そこにです一切神愛。私共も様々なそこのところを通らせて頂いて来た。だから教祖様がおっしゃる「難はみかげ」と言う様な事が、自分の心の中にはっきり刻まれて来た。そして難というその難という言葉さえも私にはないんだと。
 ナポレオンという人は、辞書から「不能」という言葉、「出来ない」という言葉、そういう字はもう除いてしまえ、「自分には不能と言う事はない」と、まあ豪語したと言う事ですが、私もある意味では豪語です。「私の前に難儀はない」あるものは一切が神愛だ。一切がおかげだ。その「おかげだ」と言うておる内容は、損することもありゃ得することもあると言う事だけれども、そこを頂き抜いて行っておるうちに「なるほど神愛だったな、やはりおかげであったな」と言う事が分かる。
 そこから生まれてくるのが「絶対信」なんですよね。昨日四時の御祈念を終わらせて頂いて、皆にまた、私この頃二、三日それを思うんですけれども。研修をしますでしょう、そうすると今、二十何名かおりますから、みんなここへ集まってくる。研修が終わって私が御祈念の座に立つと、すうっと立って行く人があります。親先生が大体御祈念するなら、一緒に御祈念しようごとね。そうでしょうが。そりゃ女の方達は、勝手の御用が夕方ありますからね。
 けれどもそうでないならば、例えば四時からの時は四時半まで御祈念させてもらうから。それまでやっぱ一緒に御祈念を頂くのが、研修をした後ですから。特別の御用があるなら別ですけど。ところがねこの頃四、五人だけは必ず残る修行生の方達があるんです。だからあと三十分と言う所の一押しを、その人達に神様が何か特別のものを下さるような感じがするんです。必ずそのお知らせを頂くんです。そして今日、研修なら研修をしたことの又要点になる様な所を、こうおかげを下さるのです。
 ですからこれはね、それなら昨日頂いたこと今日話しておるなら、もうこれは写しのようなもんです。頂いたものをそのまま頂いたものは、もう肉筆で書いたようなもんです。それだけ違うですご理解というものは。だからテープで頂くご理解と、生で頂くご理解とはそれだけ違うんです。昨日私がその「一心に願う」と言う事について、御祈念中に頂くのがですね、あの「串抜き団子」ですね。団子、串に刺すのがありましょう。四つか五つか刺してある。それを片一方の手にこう持っておるわけです。
 そして片一方の手でこうやって、あの縋っているわけです。片一方の手で。ところが片一方の手で縋ったちゃ、片一方の手だけじゃもらわれんものがあるでしょうが。それで両方の手ば出さなんけん、口の中にパッと入れてね。口でこうやってから両手でこうしよる。けれども、そげなざまでは神様は「やらん」ち言いよりなさるような感じなんですよ。私はこれ頂いてもう、そういう人がたくさんおりゃせんだろうかと。「一心に縋る」「一心に縋る」と言うとるけれどもね。
 一心に縋るなら、一心に縋る姿勢が出来なければならないと言う事。例えば卑しい心です。その卑しい心があるなら一心に縋る時だけなっとんこれを置いて、そして両方の手でこう縋れば頂けれるんだ。これは一心にすがる、一心に願う信心というても、こういう根本的なところが分からなければいけないなと言う事を昨日頂きまして、話したことでした。「どうぞどうぞ」と一心に縋るなら、こうやって団子ば食べながら、卑しいことしながら、「どうぞどうぞ」と言うのばちょっと思い浮かべてごらんなさい。
 片一方の手では頂かれん。またやる方だって、そげなそのぶざまな姿勢でやることなかです。だから私共には、いっぱい卑しい心がありますけれども、その特別に、一心にどうでもと言うて願う時にはです。その卑しいことぐらい一度そこに置いて、そして手ぐらい洗うて、そして両方の手でお頂戴をするといったような縋り方をさせてもらわなければいけないということを昨日頂いてね。これは「願う願う」と言うても、「一心に縋る」と言うてもね、一心に縋る姿勢が先ず整えられなければならない。
 例えその時だけでもよいから、汚い心卑しい心を取り外して、願うと言った様なものがいるんだと言う様な事を昨日頂いた。一心に願わずにおられん、縋らずにはおられない。それは親だから、子だからと言う情感が交流してくる。通うてくればくるほどに、やはり縋らなければおられんと親と分かれば。そこでです私共がその「絶対信」を目指さして頂く。「絶対信」そこにもう輝くばかりの光と言う事になって来るでしょう。
 そうすると、「私の店に私がいなかったら、私の店は闇になる」だから言うなら、私の店の光ともなる程しの信心とは「絶対信」だ。いや神様を信じて疑わないという生き方。神様が社に入られては闇になるように、私が社に入ったら合楽が闇になる。皆さんの家庭でも、自分の信心が消えたら自分の家が闇になる。そこで私の信心を、なら二代に三代に伝えて行かなければならない責任と、それを願いというものがおこってくる。
 家庭においても然り。私の信心のある間は光っておるけれども、私の信心がなくなったら家の中が闇になる。どうでも子に孫に、この信心を伝えておかなければならないと言う事にもなって来るのです。「私がいなかったら私の家が闇になる」「私がいなかったら私の村が闇になる」と言う様に、その私は思いが段々大きくなる。そういう私は自覚に立たせて頂く時に、自分の信心というものが貧乏揺るぎもする事ではないという信心に進んで行けれると思うです。
 信心させてもらう者は、もう一生が修行なんです。信心がなくてもやはり、この世は言うならば、「この世は苦の世苦の世界」と言われておるのですから、それを私共は「苦の世苦の世界」ではなくて、修行の世界、修行として受けて立たしてもらう信心。その信心修行に本気で取り組ませて頂いて、言うなら、水も漏らさないおかげ、いわゆる天地日月の心を和賀心として頂けれるような精進。出来ません、出来ませんけれども、やはり精進焦点をそこに置いての信心にならせて頂く時にです。
 神様の働きは十二分に、それこそおかげは天から雨が降るように、降るようにあっておるのですけれども。それを受け止め得られないでおるのが私共。信心さして頂く者はそこんところをです。いよいよ完全に受け止めさせて頂けれるような受け物を、いよいよ頂いて行く精進が必要だと言う事です。大変まあ難しいことのようにありますけれども、それが、どこか一つ欠けても先には進まれんと言う様な。
 行き方を身につけて参りますと、一つ一つ自分のものになって行く楽しみ、喜びが生まれてくるもんです。私もやはり同じこと。同時にそこにはおかげを頂いて行くというその姿勢というものがです。一心に縋るとか願うという姿勢が、私も気がつかなかったけれども。こういう今頂きましたような卑しいことをしながら、「神様どうぞ」と言った様なことではいけないと言った様な事を、今日は聞いて頂きましたですね。
   どうぞ。